LOGIN二度目の口づけは。最初より少しだけゆっくりだった。それでも。隼人くんの手は、まだ腰から離れない。唇が離れたあとも。 親指が腰の後ろで一度だけ動いた。「……このままだと」掠れた声が落ちる。「ちゃんと話せなくなる」そう言うのに。顔はまだ近い。視線も、私の唇から離れていなかった。「離れる気ない顔してる」隼人くんが少し止まる。「ないよ」あっさり認める。「でも、綾香ちゃんまだ怒ってるでしょう」「怒ってるよ」「うん」「だからって、帰りたいわけじゃない」隼人くんの目の奥に、また熱が戻る。「それ今言われると困るね」「どうして?」「また触れたくなるから」胸が跳ねた。それでも。今度は隼人くんの方から一歩離れた。その距離の取り方が。あまりにも自然だった。近づいたあと。 相手が息を整える時間を作る。気まずくならないように、次の動作へ移る。「上着、預かるよ」私は上着を脱ぐ。隼人くんは受け取り。 襟を整え、ハンガーへ掛ける。動作に迷いがない。そこで。ふと気づく。この人は。慣れている。誰かとの距離を詰めることにも。触れたあとに相手を落ち着かせることにも。どこで止まるべきかを判断することにも。全部。たぶん、知っている。そう思うと。胸の奥が少しざらついた。私だけが。まだ唇の熱を持て余しているような気がする。でも。隼人くんは上着を掛けたあと。 すぐには振り返らなかった。背を向けたまま。袖口を一度整える。短く息を吐く。それを見て。少し考えが変わる。慣れている。でも。今夜まで余裕があるわけではない。落ち着いているのではなく。落ち着こうとしている。「こっち」振り返った隼人くんについて、リビングへ入った。***大きな窓の向こうに夜景が広がっていた。高い天井。 抑えた照明。眼鏡。 読みかけの本。 充電器につながれた端末。整った部屋の中に。隼人くんの日常だけが静かに残っている。「座って」私はダイニングの椅子へ座る。隼人くんは向かいではなく。 少し斜めの位置へ座った。近すぎず。 遠すぎない。表情も見える。 手を伸ばせば届く。その距離まで。自然だった。また思う。慣れている人だ。相手を緊張させすぎない。でも。 興味がないとも思わせない。「まだ
車が地下駐車場へ入ると、窓の外から街の明かりが消えた。白い照明が、一定の間隔で車内を横切る。隼人くんは最後まで、ほとんど何も話さなかった。ラウンジを出てから。 車の中でも。何か一つ口にしたら。 抑えているものまで全部出てしまうと分かっているようだった。私は膝の上で指を重ねる。帰りたくないと言った。もっと近づきたいとも言った。今も、その気持ちは変わらない。けれど。 何も相談せず、大きな決断をしたことへの怒りまで消えたわけではなかった。車が停まる。エンジンが切れると、急に隼人くんの呼吸だけが近くなった。すぐにはシートベルトを外さない。前を向いたまま。 しばらく動かなかった。「綾香ちゃん」「うん」ようやくこちらを見る。表情はまだ読めない。「本当に、帰らなくていい?」最後の確認に聞こえた。「帰らないよ」隼人くんの喉が動く。少し長く私を見たあと。 自嘲するように口元を歪めた。「……今日の俺、相当ダサいね」「ダサい?」「うん」眉間を指で押さえる。「兄貴に嫉妬して」「綾香ちゃんが兄貴を褒めたのも気に入らなくて」「そのうえ、帰したくないとか言ってる」少し笑う。でも。 目は笑っていなかった。「こういう余裕ない男、俺が一番嫌いなんだけど」「じゃあ、どうして?」隼人くんが私を見る。「分かってても、今日は無理だった」声が少し低くなる。「綾香ちゃんが悪くないのも」「兄貴が何かしたわけじゃないのも分かってる」「それでも嫌だった」その一言だけ、少し掠れた。「今、帰らないって言われて」一度、私の唇へ視線が落ちる。「かなり安心してる」「そうは見えないけど」「見せないようにしてるから」少しだけ、いつもの笑い方に戻る。「これ以上ダサくなりたくないし」「もう遅くない?」言うと。隼人くんが一瞬止まり。 小さく笑った。「そうかもね」ようやく、シートベルトを外した。***車を降りる。地下駐車場は広く。 車同士の間隔も十分に取られていた。照明は明るいのに、人の気配はほとんどない。見覚えのある種類の空間だった。優と暮らしていたマンションにも。 似た静けさがあった。外から帰ってくれば。 人とほとんど顔を合わせることなく、そのまま部屋まで上がれる。エントランスも。 エレベーター
しばらく、車内に言葉はなかった。街灯の光が。隼人くんの横顔を照らしては、消していく。私は、何度か隣を見た。やっぱり。今夜の隼人くんは、いつもより読めない。普段なら。沈黙の中にも、何となく感情が見える。今は違う。表情は静かで。 視線は前。ただ。信号で止まるたび。指がハンドルの縁を確かめるように動く。時々。舌先で、内側から頬を押す。何かを飲み込んでいる時の癖なのだと。今日初めて知った。「綾香ちゃん」突然、名前を呼ばれる。「何?」「さっき」言葉が止まる。隼人くんの下顎が、ほんの少し動いた。「兄貴との婚姻の意思はないって言ったでしょう」「うん」「本当にないんだよね」私は隣を見る。「ないよ」即答する。「仕事で尊敬してても?」「それとこれは別だって言ったでしょう」「分かってる」そう言うのに。眉間には薄く皺が寄った。「……分かってない顔してる」思わず言う。隼人くんが、一瞬こちらを見る。「そう?」「うん」「じゃあ」少しだけ口元が歪む。「分かってるけど、気に入らない顔かな」その言い方とは違って。目には、笑いがなかった。「兄貴のこと、尊敬してるって言った時」ハンドルを握る指が、ゆっくり締まる。「かなり嫌だったよ、さっきも言ったけど」「……知ってる」「もっと嫌だったのは」一度。息を吸う。「もし綾香ちゃんが、違う状況で兄貴と会ってたらって考えたこと」胸が跳ねる。「どういう意味?」「そのままだよ」視線が一瞬だけ私へ向く。今度は。すぐには戻らなかった。「兄貴は、綾香ちゃんを気に入ったと思う」「仕事の話でしょう?」「最初はね」声が低くなる。同時に。隼人くんの奥歯が、わずかに噛み締められる。「でも、あの人が本当に欲しくなったら」指先に力が入る。「面倒だったと思う」「郁人先生はそんな――」「分かってるよ」静かに遮る。でも。その顔は少しも納得していない。「兄貴が何かしたって言ってるんじゃない」「俺が嫌なだけ」今日、何度も聞いた言葉。けれど今度は。開き直るような静けさがあった。「綾香ちゃんが誰かに好かれるのは止められない」「誰と仕事するかも、俺が決めることじゃない」隼人くんは淡々と続ける。「でも」親指が、ハンドルから離れる。一度だけ。膝
車は、都心を抜けていく。――俺以外との結婚が、選択肢として残ってること自体が嫌だった。その言葉が、まだ胸に残っていた。隼人くんは何事もなかったように運転している。背筋はまっすぐ。 視線は前方。速度も一定。いつもの隼人くんなら。黙っていても、少しは分かる。機嫌がいい時は、口元が緩む。 考えている時は、眉尻がわずかに下がる。 困ると、一度だけ目を伏せる。今日は。それがほとんどない。綺麗に感情を閉じている。そのせいで。わずかな動きばかりが、目についた。赤信号で止まるたび。 右手がハンドルの同じ場所を握り直す。車線を変えた後。 親指が一度、革を擦る。何でもない仕草のはずなのに。今夜は。そこにしか感情が見えなかった。「それで」私は尋ねる。「本当に、全部うまくいくと思ってる?」「思ってない」返事は早かった。思わず隣を見る。「……思ってないの?」「面倒になるよ」前を見たまま答える。「かなり」「クリニックもあるのに?」「残す」「海外へ行くことも増えるでしょう」「増えると思う」「日本にいない時間も?」「ある」都合の悪いことを、一つも隠さない。それなのに。顔だけは何も語らない。「今までみたいにはいかないかもしれないよ」「分かってる」「それでも?」隼人くんの口元が、ごくわずかに歪んだ。「それ、今日何回目?」声には少しだけ柔らかさが戻っていた。けれど。目は笑っていない。私は、それを見ていた。「隼人くん」「何?」「平気そうに見える」数秒。返事がない。信号が青になる。車が動き出す。「そう見える?」「うん」「じゃあ、見せるの上手いんだね」その言葉と同時に。右手が一度だけ強くハンドルを握った。やっぱり。平気ではない。「一番上のお兄さんは?」「和人?」「うん」横顔が、ほんの少し硬くなった。今度は分かった。一瞬だけ。顎に力が入った。「よく思わないと思う」「どうして?」「自分の領域が減るから」親指が、ゆっくりハンドルの縁をなぞる。「郁人兄貴とは違う」「何が?」「兄貴は、自分に必要がなければ、人の領域へ無理に入ってこない」郁人先生らしいと思った。今日も。自分なら縁談を断る理由はないと言いながら。私に意思がないなら進めるべきではない
ホテルを出ると、夜の空気は先ほどより冷えていた。隼人くんと並んで歩く。ラウンジで。 私は「いいよ」と答えた。もう少し一緒にいることも。 隼人くんの家へ行くことも。自分で選んだ。それでも。 怒りまで消えたわけではない。隼人くんは、いつものように私の歩幅へ合わせていた。人とすれ違えば、何も言わずに歩道の内側へ入れてくれる。 段差の前では、ほんの少し速度を落とす。そういうところは、何も変わらない。なのに。表情だけが、いつもより遠かった。普段なら。 少し困っているとか。 気まずそうにしているとか。 言いたいことを飲み込んでいるとか。それくらいは分かる。今日は、それが読めない。横顔は整ったまま。 口元も動かない。ただ。時々、ジャケットのポケットへ入れた手が、中で握られているのだけが分かった。駐車場へ着くと、隼人くんが鍵を操作する。少し離れた場所で、黒い車のライトが点滅した。以前、ギャラリーの帰りに一度だけ乗った車だった。普段より車高が低く。 隼人くんが仕事の場へ出る時の顔に、よく似合う車。今日も。最初から何か起きる可能性を考えていたのだと思う。隼人くんは助手席の扉を開けた。「どうぞ」「ありがとう」声まで、いつも通りだった。だから余計に分からない。乗り込むと、外の音が遠ざかった。隼人くんも運転席へ回る。シートベルトを締める。 ナビへ自宅を設定する。けれど。すぐには車を出さなかった。両手をハンドルへ置いたまま、数秒止まる。右手の親指が、革の縫い目を一度強く押した。それから。何事もなかったようにアクセルを踏む。夜の街が流れ始めた。「本当に」私が口を開く。「家を継ぐの?」隼人くんの指が、ほんの少し動いた。赤信号で車が止まる。「継ぐよ」「今日、縁談を止めるために言っただけじゃなくて?」「うん」「本当に?」今度は、こちらを見た。一瞬だけ。表情は薄い。迷いも。 不安も。何も見えない。「本当に」信号が変わる。隼人くんは前を向いた。「ずっと、絶対にやらないって言ってたでしょう」「言ってた」「だったら、どうして」唇が一度、固く閉じられる。「いつかは向き合わなきゃいけなかったから」「でも、今日じゃなくてもよかった」「そうだね」あっさり認める。その顔も
「どういうこと?」「隼人くんは、私がどうしたいかをずっと考えてくれるでしょう」「それは普通じゃない?」「普通かどうかじゃなくて」私は顔を上げた。「私も、隼人くんがどうしたいのか知りたいの」視線がぶつかる。「私が嫌じゃないかだけじゃなくて」「隼人くんが嬉しいのか」「寂しかったのか」「本当は帰したくないのか」「触れたいのか」一つずつ口にすると、最後だけ少し恥ずかしくなった。それでも、目は逸らさなかった。隼人くんの表情が、目に見えて変わる。さっきまで固かった目元から力が抜けた。けれど。どこか戸惑っている。「そんなの」小さく息を吐く。「綾香ちゃんが知って、どうするの」その言い方に、胸が少し痛くなった。本当に。この人は、自分の気持ちを後ろへ置くことに慣れている。「考えるよ」「何を?」「隼人くんのこと」今度は、迷わなかった。隼人くんの目が止まる。「恋人なんだから」言葉にすると。自分の胸にも、じわりと広がった。「私が嫌じゃないかを、隼人くんが考えてくれるなら」「私だって、隼人くんが何を望んでるのか考えたい」「隼人くんが私を大事にしてくれるのと同じように」息を吸う。「私も、隼人くんを大事にしたいよ」隼人くんは何も言わなかった。瞬きさえ少ない。ただ、私を見ている。その目が。少しずつ、柔らかくなる。それでも。口元にはまだ、ほんのわずかに緊張が残っていた。嬉しいはずなのに。簡単には信じないようにしているみたいだった。「……それ」やがて声が落ちる。「今言うの、ずるいね」「どうして?」「俺、今日ずっと余裕ないのに」その言葉とは裏腹に。ほんの少しだけ、口元が緩んだ。今日初めて見る。いつもの隼人くんに近い表情だった。でも完全には戻っていない。目の奥にはまだ、隠しきれない熱が残っている。私は、それを見ていた。さっきまでは。何を考えているのか分からないことが嫌だった。でも今は少しだけ分かる。「余裕ないって言う割に」「うん?」「ずっと平気そうな顔してる」隼人くんが、わずかに眉を上げた。「そう?」「うん」「全然平気じゃないよ」即答だった。思わず、少し笑ってしまった。隼人くんも。今度こそ、ほんの少し笑った。それだけで。張りつめていたものが、少しだけほどける。
「……それ」綾瀬先生の視線が、スマホに落ちた。そして。少しだけ、眉が寄る。「旦那さんですか?」反射的に、スマホを伏せた。「……違います」ほとんど条件反射だった。見られたくなかった。惨めな自分を。既婚者なのに。全然、大事にされていない現実を。家に帰るかどうかを、愛人の都合で決められる妻。そんなもの。第三者に見せられるほど、強くない。数秒だけ。静かな空気。ちょっと変な空気になる。そして。綾瀬先生が、少し困ったように笑った。「いや、それはちょっと無理あるよね」みかが横から吹き出す。「先生、正解です」身を乗り出して言う。「しかも超最低なんですよ、この人の旦
「返信しなよ、このタイミングだし」みかが、にやにやしながらスマホを指差した。「いや、無理でしょ」即答した。「なんて返すのよ、そもそも」「普通に、“どうしました?”でいいじゃん」「え、でもそんな感じの距離じゃないし」言いながら、スマホの画面を見る。【綾瀬隼人】『こんばんは。 この前の学会ぶりです。 急だけど、今少し話せたりする?』おかしい。なんで、このタイミングなんだろう。学会で少し話しただけの相手だ。連絡先だって、半ば強引に交換された。『現場戻りたくなった時のため』そう言って、名刺を渡されて。ついでみたいにメッセージアプリまで聞かれた。断るほどの理由もなく
青山駅前のカフェは、平日の夜なのに妙に混んでいた。窓際の席で、大きく手を振る女がいる。派手な金髪ボブだからこそ、いつもすぐに見つけられる。「綾香、こっち」香山みか。高校1年からの付き合いで。大学も違ったし、就職後はお互い忙しくなった。それでも。私が唯一、本音を言える相手だった。席に着いた瞬間。疲れ果てた表情が滲み出ていたのだろうか。みかの表情が固まる。「……え、待って」眉を寄せる。そして、急に顔が険しくなった。「本当にどうしたの、その顔」私は苦笑いした。「そんなにひどい?」「ひどすぎるレベル。大学のときに元カレに振られた次の日みたい」その言葉に、なぜか笑ってしま
6月10日。4回目の結婚記念日。そして——私が、あと1年で離婚しよう。そう、決めた日。本当なら、こんな日になるはずじゃなかった。少なくとも、4年前の私はそう思っていた。その日の午後6時にちょうどなった。さっきから、時計が次の針に進むのを見つめては。帰ってこない夫への諦めが募り。ため息が溢れた。私東郷綾香(とうごうあやか)はテーブルの上にまだ湯気の立つ料理を並べる。壁の時計をもう見たくなかった。さっきから、穴が開くほど見つめている。夫である東郷優(とうごうゆう)の帰宅予定は、7時だったはず。もう、1時間前なのに。連絡は、全く取れずにいた。まだ、遅くない。——期待なんて